序章



 はじまりは、早すぎる夏の陽射しからだった。
 春の陽気が一歩後退したような、少し肌寒い天気が続いた次の週だった。
 功はその日も、学校へ行くために家を出、バス停に向かって歩いていた。
 桜の散った頃には似つかわしくない、熱い陽射し。黒くて重い制服に包まれていても、それは存分に感じることができた。
『夏が、来たのかなぁ。』
五月にもなればよくある天気だとわかっていながら、功はそう思うのである。確かに空は雲一つなく開けているし、陽射しはこんなに輝いているし、それに今日は心持ち道路を走る車が少ない。
『まるで夏休みの昼間じゃないか。』
功は立ち止まって、外れそうなイヤホンを耳に入れ直した。
『たまには・・・健康のために歩いて登校しよう。』

こうして、功の引きずるような歩みはどこかに消え、代わりにリズムが生まれた。  もちろん、遅刻は確定である。

 一時間ほど歩いただろうか。埃の舞っているらしいバイパスで、一人だけ端っこを歩いている功の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
『つまらない・・・バイパスはつまらない・・・』
粉塵の中の功の思考は、ゾンビ寸前になっていた。信号で立ち止まれば、足はズッシリと重く、目も痛い。そんな目をぎゅーっと閉じた。目薬をしたような痛みが多少あった。信号が青になり、歩みを再開しても、何だか変な感じがして、しばらく目をしばたたきながらの蛇行をしていた。
 そんな時、一瞬だけ功の鼻をついたものがあった。
『・・・潮の匂い・・・!?』
橋の上だった。ふと見ると眼下には、きらめきを揺らがせている大きな流れがあった。歩きながらも二度目を感じようとしたが、匂うことはなかった。
 功は早足で橋に直角な川辺の道へ入っていった。砂利や草地をはさんで、流れを見渡せる、まっすぐ伸びたアスファルトの道である。功も背伸びと深呼吸の運動をして、草地に歩みだした。
 緩やかとは言えない、川辺特有の斜面に鞄を置いたとき、自転車が近づいてくるのがわかった。だが自分のしていることもしていることなので、その様子を伺うことはしなかった。
「サボりですか〜?」
自転車の方から女性の声が聞こえた。たしか、美智の友人の節子という人だ。
「ああ、節子さん。」
美智がいない場で彼女と話すのは、初めてだった。
「サボりでしょ?私も、ご一緒しようかな。」
「何言ってるんだ、早く学校に行かないと先生に怒られるよ。」
「私はちゃんとした遅刻だもの。通院だから。あなたは、今日はどうしたの?」
「それは・・・」
「なぁに?」
「秘密なんだ。教えられない。」
「ふ〜ん。」
「だから、先生にも僕がここにいた、なんて言っちゃいけないよ。なんせ秘密なんだからね。」
そう言って功が表情を和らげてみせると、節子も笑って、言ってくれた。
「いいよ。」

 「さて、学校行く?」
功は一応聞いてみた。
「う〜ん、ちょっと、もったいないかな。」
「やっぱり?何時間目に行ったって、遅刻は遅刻だもんなぁ。それじゃ、立ち話もなんですから・・・」
そう言うと功はそそくさと緑地に踏み入り、腰を下ろした。
「じゃぁ、遠慮なく。」
なかなか節子のノリがいいので、功は気分が良かった。
「しっかし、本当にもったいないなぁ。」
「そうだね。」
「この青空、平日でさえなきゃ、『絶好の行楽日和でしょう』なんて言ってもらえるだろうにねぇ。」
「洗濯日和、っては言ってたよ。」
「あ〜、あれね。」

 「あ、」
節子が突然、何かに気付いた、という風な声を出した。
「どうかした?」
「雲、出てたんだ。」
「あの山のとこ?」
「そうそう。今日は『雲一つない青空』って言ってもらえるだろうな、って思ったのになぁ。」
「あはは。でもそれは難しいかもね。テレビ局の上に雲があれば、それだけで・・・ね?」
「うん。・・・天気の境目、だね・・・どこにあるのかな?」
「そればっかりは・・・なぁ、」
「やっぱりわからないかな?」
「探しに行かなきゃ、わからないよ。」
「へぇ、探しに行けばいいんだ。いいこと聞いちゃった。」
「そうさ・・・いくら持ってる?」
「ええっと・・・」
節子は財布から夏目漱石を一枚出して見せた。功はと言うと、手のひらに大きな硬貨が二枚、だった。

 二人は空を見上げた。
「探しに行きたいなー。」
「うん・・・」

 節子が功の方を向いて問いかけた。
「ねぇ、どの辺にあると思う?・・・天気の境目って。」
「え?う〜ん、なかなかムズかしい質問だな・・・」
功が答えを言えないまま、会話が途切れた。節子が功から視線を外すのがわかった。功にとって、ひどく情けない瞬間だった。

「ああ、えーとね、天気の、境目は・・・」





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