5月 11, 2010
tronmc

映画:ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-(ネタバレ有)

最初に言っておく!
私はあの「CASSHERN」でさえ悪くないと思っている人間です。(どういうことかと言えば、変人なんです)
そういう私でも、この映画はヒドい!と声を大にします。
後述しますが、酷くてもなんか憎めない映画ではあります。おもしろくなかったとは言えませんけど、おもしろいとも言えない、むしろ駄作だと言えます。

前作「ゼブラーマン」については、リアルタイムで劇場で見て、DVDも持っているくらい好きです。
今でこそ近年の仮面ライダーをヲタク趣味としていますが、本格的にそのケが出始めたのはほとんど「電王」からで、「ゼブラーマン」についてはヒーローヲタ根性で愛好したものではないんです。
ヒーローものをチープなネタにしたSF(?)アクションコメディとして好きだったんです。
徐々にヒーロー像が構築されながらもどこか気の抜けた作りが好きでした。もちろん、最後はカッコイイ!と思いましたよ。そういう締めも含めて、完成度の高いものだと思ったから、DVDも買って何度も見たんです。

しかし、それを原理にしてこの「ゼブラシティの逆襲」を批判するわけではありません。
もっとも、前作の完成度が高いだけに、期待をしていなかったのは事実です。でもそれを良い方向に裏切って欲しくて、前情報をなるべく仕入れないでおきました。

本当は私はどちらかというと仕入れる方なんです。例えば仮面ライダーの映画を見るときは逆に積極的に雑誌を見て情報を仕入れて、それである程度設定やギミックを踏まえた上で見ます。その仕入れた情報が実際に映像で発露されるところを血眼で見てカタルシスを覚えるようなタイプなんですね。まぁ、物語については満足しないことがほとんどで、結局悪い方に期待を裏切られて帰ってくるのですが…。
他の映画にしても、基本的に映画館に行くのには勇気がいるタイプの人間なので(上映前の宣伝映像で、グロいものとか、見たくもないものを前触れもなく、しかも迫力のある環境で見させられてしまうのが嫌なんです。あと毎度の映画泥棒の映像も生理的になんか怖いしね。最近はその怖さもある種の楽しみになりつつあるけど)、自分の感性とか属性に合いそうかどうか、前情報や批評をもって判断してから行くことがほとんどです。

とにかく前情報を入れないで見に行くのは個人的には異例のようなものなんです。
(続編だから見なければ、という変な根性がこういうことをせざるを得なくさせたんですけど)
テレビ露出や、上映スケジュールを調べる際に見た劇場Webサイトで仕方なく知ってしまった情報もありますが、それは舞台が2025年で、ゼブラーマンこと新市に空白の15年があることと、あとはやはりというかなんというか…ゼブラクイーンなる存在がいること。でもその曲やダンスの内容について知らずにいれたのは幸いでした。

そんな個人的背景をもって観た「ゼブラシティの逆襲」ですが…

一応前作を踏まえたものにはなっていますが、ほとんど仕切り直しの別物と言ってよく、漫画原作ものを「スタイリッシュ」を売り文句に実写映画化し、ありえない要素も真面目にすっ飛ばせたシリアスな近未来SF邦画というような体裁になっていました。
新市周りにはいくらかギャグめいた要素も入るのですが、前作ほどのおかしさもシュールさもありません。

序盤は新市が記憶を失ったことや、ゼブラシティが作られたこと等の謎があるまま、ゼブラクイーン側に動きや見せ場が多いのですが、その時間が長いので、ワケワカラナイ感が少し強いです。ゼブラクイーンの歌がPV垂れ流しか?っていう感じで入ったりするなど、とにかくゼブラクイーン推しの展開なので、「哀川翔のゼブラーマン」を観に行った身としては少々ヤキモキさせられました。

そのシリアスな感じの中で、同じくゼブラタイムの被害者として「白馬の家」という施設にかくまわれていたすみれというエイリアンを体内に宿す少女と触れ合い、新市も白ゼブラーマン(白いのだ。もはやシマウマではないが、灰色アクセントでキレイでもないので白馬という感じでもない)に目覚めていき、ゼブラクイーンは対を成す黒ゼブラーマンとして覚醒します。
その頃には新市の過去やゼブラクイーンの出自も明らかになるのですが、根本的に何でそういうことになったのかは最後までまるでわかりません。
結論から言うと、全てはゼブラシティの知事となり、朝夕5時からの5分間、権力者の犯罪行為を許すゼブラタイムを設け、恐怖政治により治安、経済を安定させ、セブラクイーンを娘とし、広告塔として使う相原公蔵という男によるものです。彼がマッドサイエンティストとして新市を扱った結果、彼の善悪が分離され、新市=白ゼブラとゼブラクイーン=黒ゼブラが生まれたのだが、なぜそんなことをしたのかも明確なところにはなっていないし、なぜセブラシティやセブラタイムを作ったのかもてんでわかりません。ご開陳された謎の正体は取って付けたような話でした。

そこは百歩譲るにしても、白vs黒、ヒーローの中にあった善と悪という構図をとるには、新市の暗部の描き込みが足りません。冒頭、2010年において、前作での活躍により過剰なマスコミや人だかりの中で家族に出て行かれたことが明かされ、”浅野さん”にも見放されるようなシーンが一つ。そして、すみれの中のエイリアンを復活させようとする際に白ゼブラに対して黒ゼブラが新市の顔を幻出させ、毒を吐かせるシーン。その程度です。圧倒的に説得力が足りません。

エイリアンはすみれの体内に出て復活し、前作と同等かそれ以上の巨大なものとなりゼブラシティを危機に陥れます。ゼブラクイーンはそれを倒して英雄となるためにエイリアンを復活させたのですが、エイリアンの力に圧倒されます。
お話としてはクライマックスを迎えるのですが、それに対して登場人物のセリフはさらに取って付けたような薄っぺらさを増していきます。それだけなら偽善的な酷い映画と一笑に付すことができるのですが、困ったことにクライマックスに来てバカっぷりが爆発して、最後の最後までギャグ的な描写が出てくること出てくること。ここまでやっておいて、シリアスならシリアスで貫くこともしない!

白と黒のゼブラーマンは合体し、新たなゼブラーマンが誕生しますが、それでもエイリアンに苦戦します。
ちなみに前作の最終形態とも違う姿です。それは黒ベースに白のラインが入っていて、引き締まったかっこよさの中にもシマウマの要素を残していたのですが、今度の最終形態は真っ黒に赤のアクセントです。これももはやシマウマではありません…なんだよそれ!という感じです。

最終的には、白馬の家で目にした2010年の新市の活躍後に製作されたという、新・特撮ゼブラーマン(前作同様の劇中劇)の最終回を思い出し、ゼブラーマンはエイリアンを食べます。大きすぎると言われ、食べるのが辛くなるとストローのような形に押さえ、ズルズルと吸い込んでいきます。そして腹、もとい体がビルをゆうに越えるほどに巨大に丸まり、「丸くおさめたぜ!」……よもやこんなギャグで事態が収拾しようとは…。自己犠牲の精神らしいですが、そんな感じは微塵もありません…。

風船のような風体で滞空するゼブラーマンをすみれはくるくる回し、逆さにしてその顔を自分の前にもってきます。彼女がその顔に触れるとマスクが無くなり、新市の顔が表れるのですが、そこで彼女が発した言葉は「信じれば夢は叶う」。そう、前作で「Anything Goes」にアテられ使われた言葉です。
前作でも存在価値が少し疑問な言葉でしたが、それをこの場で唐突に取り出す!この映画の薄っぺらさの最高潮と言っても良いでしょう。
ところが、その後新市が掴まっていた鉄筋から手を放すと、ゼブラーマンはまさに風船のごとくふわりと空に舞い上がっていきます。エンドロールでは地球を越え、月を越え、宇宙を漂っていくのですが、そのときの哀川翔の仙人のような表情といったらもう!最後にとびきりシュールなギャグが待っていました。

とにかく、薄っぺらさ、取って付けた感が目立ち、やっぱり前作を越えることは無いどころか、駄作になってしまっていて、元々の期待値の低さにも関わらず悪い方に期待を裏切られてしまいました。
それでも何だか憎めないのは、やはり終盤のギャグ展開があるからですね。
例えば脚本のクドカンがメガホンを取った「真夜中の弥次さん喜多さん」なんかは、前半ギャグ全開、終盤訳のわからない世界に入る、という感じで、そういうのはやっぱり鑑賞後の印象は悪く傾きがちになるんですが、「ゼブラシティの逆襲」はその逆ですね。
ギャグ展開自体、風呂敷を畳みきれないことに対する逃げのような気もしないでもなく、評価はできません。しかし、笑っちゃうんだから仕方ないですよね。
そういう意味でもどうしようもない、困ったちゃんな映画でした。

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