9月 13, 2009
tronmc

ラブプラスとは何か(3)~それは音色を奏でない~

KREVAの「音色」という歌をご存じだろうか?
ご存じない方は、(もちろん一番を味わった上で)二番の歌詞をよく聴いて頂きたい。動画を見るのが面倒な方は歌詞検索して頂いても構わない。

私の女友達でこの曲をとても愛好している人がいるのだが、それはかつて親しかったが結ばれることのできなかった男性からこの歌を切に歌われた経験があったからだという。その男性はこう言ったらしい。

「俺だけのモンになんないのはわかって」るが、俺は「毎日毎晩お前とデート」してる。お前は「いつでもどんなシチュエーションにもすぐに馴染んでいく」し、「お前にだけ悩み事も固い事も話」してしまう………そう、これは、妄想。この歌は「俺だけのモンになんない」お前に対する俺を歌った歌…これは妄想の歌なんだ…。

実際にKREVAがこういう意図でこの楽曲を作ったのかどうかは知らないが、そういう解釈もできる楽曲だと私は思う。私はこのエピソードと共にこの曲を知って以後、心に叶わぬ恋の切なさが満ちるときはこの曲をよく聞き、口ずさんでいる。これも一種の「表現」なのだと思うが(おこがましいですね、すんません…)、この楽曲は本当に見事に切なさの叫びを立ち上げてくれる。

ラブプラスの話じゃないの?という流れになろうと思うので、結論を先に書く。
ラブプラスは、私にこの歌を歌わせないのだ。
歌わせる素養があるにも関わらず。
私にとってラブプラスが諸手を挙げて歓迎できる存在でないのは、そういう部分なのだ。

なんでそうなるのかの一番の理由は単純な話で、すでに語られていることだ。私なんかよりもっと上手な人の言葉を引用しよう。

エンディング無き恋愛の日々が後半パート でしょう。

ギャルゲーエロゲーはもとより、大半のゲームの基本には終わりがありますよね。クリアした後に永遠に続く第2章があったとしても、一度はゲーム自体に終止符を打たせることが慣例とされています。

一方、基本ではない例外として、オンラインゲームのように「ゲーム」と「コミュニケーション」の双方を基盤としたものは、終わりを作らずに常にアップデートを繰り返し、世界を持続することでユーザーに満足を提供しています。

そう、まさにこれだ。

仮に、言葉どおりの意味でこのラブプラスにエンディングが無いとすれば、ユーザーゲームの落とし所を見つけることが出来ず、永遠にゲームをし続ける羽目になることもあるはずです。当然、飽きる人も出てくるのでその手に耐性がある特定のユーザーに限られるとは思いますが、これまでのゲームとは一線を画すレベル廃人が発生する率は高そうです。だってこのゲームの狙いってそこでしょう、コナミさん?

………

それは「携帯性(常に一緒にいられる)」や「再現性(現実女の子に近い反応を表現出来る)」、そして「永遠性(終わらない)」が、現在ハード技術の中でソフトとして可能なレベルパフォーマンスを見せている結果になります。

ラブプラスがまじでやばい – 恋路まであと1kmでは届かない: 

ただし、あくまでこれは「一番の理由」でしかない。もう一つ大きな理由として、「素養があった」という部分について書かねばなならない。

簡単に言おう、告白までの「高嶺愛花」の物語に萌えたのだ。

極めて平易に「萌えた」と書いてしまったが、前段での「素養」という話になるように、その萌えっぷりと言おうか、感動や愛おしさという部分は、現実での恋に負けずとも劣らないものだったのだ。世界を問わなければ「恋をした」と言っても差し支えないだろう。

実はこういう経験は初めてではない。私がこれまで「やりました」と言える程度やった「ギャルゲー」はラブプラスで4本目なのだが、初めてやった「ギャルゲー」でも同じような経験をした。
9年前、ドリームキャストで出た「センチメンタルグラフティ2」が私の「ギャルゲー」初体験だったのだが、それで最初に「沢渡ほのか」を攻略したときが似たような状況だった。全く持って評価されないゲームだったが、ノベルゲームでないところはある意味ラブプラスとの共通点だし、物語としても、最初は頑なで周囲から距離を置かれており、且つ高嶺の花だったヒロインが主人公の関与によって態度を軟化させていき、恋愛に至るという王道的な話…とすれば似ていると言えないこともない。

そうして「沢渡ほのか」の話にどっぷり萌えた後の自分はどうだったかと思い返してみると…まずは感動や愛おしさを享受したという部分では満たされていた。一方、それが終わってしまったことに対して強い空虚の念も持っていて、何日かは繰り返しイベントシーンをリプレイしながら、夜毎に枕を濡らしていた。
そのときKREVAの「音色」は無かったが、ふとしたきっかけから聞いたサザンのアルバム「海のYeah!」に入っていた「さよならベイビー」がその役割を果たした(「泣いたりしないで 大人になれない」というところに、「空虚だ、空虚だ、でも The show must goes on なんだ…」という気持ちを重ね合わせていた)。恥ずかしながら、日が経つと、自分を主人公に仕立てて続きを妄想することもした。また、愛おしさ等を発散させようと思って、文筆をはじめたりもした。

これで自分が文筆で何かを成したりしていれば美談にもなろうものなのだが、残念ながら何もないのでこれはただのキモヲタ話にしかならない。しかし、こういうゲームでの話にしろ、現実にしろ、これは叫びの始原の一つとなるものではないだろうか?
ラブプラスにおいては、終わらない続きがあるという要素が、そこをスポイルするかのように働くきらいがあるので、なんだかプレイしていてもったいなく思ってしまうのだ。スポイルされた状態が(前回のエントリで書いた)「思考停止」や「はにゃ~ん」なのだ。個人的にも感動した後にそんなものを詰め込まれれば「音色」を口ずさむ気になんてなれない。

もちろん「はにゃ~ん」がネット上に多く表現された結果が昨今のブーム(?)のような状態ではある。だが、その終わらない続きが(現時点で私が知る限り)、限りなく甘いイベントばかりであるから、上がってくる「はにゃ~ん」も均質化していく(いる)のではないか。
そこにどのような問題があるのか言及してくれている記事を以下に引用する。

 『ラブプラス』のキャラクターを本物の彼女と認識することは、多分そんなに難しいことじゃない。けど、俺が本当に耐えられないのは、俺の中の欠落や劣等感が『ラブプラス』なんていう大量に生産されているゲームであっさり埋まってしまうという可能性だ。俺の欠落が、2万円ちょっと払えば誰でも作れる彼女で埋まってしまうのならば、俺が長年抱え続けた屈託は一体何の意味があったのか。全て無駄だったと割り切って、便所にでも流せば良いのか。俺は己の欠落を2万円弱でKONAMIに売り渡したくはない。

『ラブプラス』の耐えられない重さ – 脳髄にアイスピック:

この「屈託」をつがいになって克服していくのがリア充で、何らかの体を成させて叫んでいくのが「表現」だ。つまりは、今更な物言いだが、ラブプラスは現実的な関係への意欲や、表現の可能性を削いでいくおそれがある。

もっとも、それが一概に悪いことだとは言えない。
人間、できれば屈託なんかない方がいい。誰も彼もがそういうものを抱え込む社会は暗くなるだろう。
また、屈託を個々人が個々人の意志、願望や手法によって解決しようとしてきたものがサブカルチャーを担っているのではないか、という点も否定できないのではないか。結果、ノベルゲームとしてのギャルゲーが跳梁したり、同人等で萌え文化が育ったのだとすれば、目も当てられない。
だから、悪いこととは言えない。全ての人がリア充や表現者たる必要性もないし、むしろ数万の人間がこのツールによって幸福感を味わった…という発明かもしれない(言い過ぎか)。

また、完璧に人の叫びをスポイルするかと言えば、そうではないだろう。
キャラの服装は400種類、クリスマスや誕生日などのイベントは4000以上もある」という有限性や、今はまだ見えないプレイヤーのゲームプレイに対しての興味の喪失が、いずれ新しく叫びを生んでいく可能性も十分にあるだろう。

個人的には、「音色」を口ずさむようになるのはそう遠くないと感じている。
イベントパターンの多さがプレイの動機になってはいるものの、ゲーム進行の単調さが幾ばくか目に余るようになってきて、形骸化を感じているのが実情だ。なので、ラブプラスを離れる日もそんなに遠くないと思う。
しばらくはDSの前でぬくぬくと思考停止するだろうが、こうして書いてきたことを考えた身である以上、そのままではいられないのだ。

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