10月 4, 2013
tronmc

映画:[二回目]劇場版 あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない

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涙活失敗!

いや別に涙を流す機会に困ってないけれど。
再放送も終了したので満を持して再度鑑賞。

しかし、自分でもびっくりするほどに心が動かない。
全くうるっとこない。
前回は前回で話の流れを整理するのに意識を割いてしまったけれど、今度は泣けないことに戸惑っていた…(汗)。

花火のあたりでそれに気付いて、これはまずい!まずいぞ!と思いながらも、どこか冷静になっていく自分もいて。
そうした中、どのシーンかは忘れたけれど、これは理詰めで泣いていく話なのかな?と突然思って、その途端戸惑いとか心のざわめきがぴたっと止まった。

めんまと過ごした小5の時期から、めんまが現れた高1の夏まで、一貫した線、あるいは軸(必ずしも正しくてキレイなものではないけれど)がピンと伸びていて、登場人物各々は、おおむねそれに沿った行動をしてきたと言える。
当然最初はそういうものははっきりとは見えなくて、最後に向けて輪郭を現していく。これは物語をやる上ではとても正しいことで、TVシリーズはこれをしっかりやったと思う。
その線が最初からわりとハッキリしちゃってるのもそうだし、その線を一本ずつ、つまりは序盤なんだけれど、登場人物ごとにやっていくから、余計ハッキリくっきりしちゃう。でもって、線の関係が感じづらい。いわゆる「横の関係」的な部分。

この人こうなるからこうだよね、そうだよね、っていう展開をする上に、そのとき別のあの人は!みたいなところを積極的に感じていけるような作りじゃないと思うんだな。良いか悪いかはさておき。

あなるはこうなんだよねー、そういうとこでゆきあつとこういう関係が…そのときつるこは!うわーっ、そうかーそうだなー!みたいのをTVシリーズでは感じたけれど、そういうのが起きない。(どのシーンとは申しませんが)
あなるは…そうですね。つるこは…そうですね。……で完結するのが今回の劇場版。

でもって、人間が感動するメカニズムはわからないし、個人差があることだろうけど(最近こういうことばかり考えてるからきちんと文章が書けない)、そうやって筋道が通ってるから、感動するとか泣くっていうことをするにはあまりにもロジカルなんじゃ?と思った。
もちろん、感動だとか涙が出るとか、そういうのに理屈が無いとは言わないけれど。
ただ、元々の作りとして、露骨に感情を発露させるような表現をあまりしていないのが、構成のせいで目立っただけなのかな、と思う。

TVシリーズでは序盤から唯一泣きまくっていて、見る側にもある種の泣き所だったと思うのがめんまだけれど、本当に回想だけになってしまったから(新規シーンがないという意味ではない)か、アウェー感が強いのも泣きの部分ではマイナスだったかも。

しかし。しかしだ。
泣く必要はあったのだろうか。
登場人物たちはTVシリーズでやってきた泣けるような、というか実際俺が泣いた青春絵図を清濁併せ呑んで受け入れちゃっている。
むしろ、感情移入すればするほど、泣く必要はないんじゃないだろうか。
本当にこう、「あの花」を振り返って、前に進もうって元気をもらうくらいでいいのでは。

そう、泣けるんです、という前提自体が間違っていたのではないだろうか。少なくとも俺にとっては。
なぜそうなったかといえば、TVシリーズがそうだったからということもあり。
予備知識がなかったから、劇場版はどんなもんなんだろう、とネットを見るうちにそういうイメージがついたということもあり。
とくに後者。ネットでイメージがついてしまうっていうのはなんというか…自分がないみたいでなんだか残念。さもしい人間に思えてしまう。
つまるところ、それはリアルタイムで見ていなかったゆえに起こったことなのだから、全部自分のせい。「リアルタイムで見ていないとかマジ死ぬべき!」というヤツ。

自分どうこうで言えば、最近、やたら泣くな自分、というのがわかってきて、そのせいでハードル上がったというのはあるかも。
もしも、もしもこれも本質的には「泣ける作品」なのだとしたら、ネットのこともそうだけれど、外的要因でそれに至らなかったわけだし、もったいない。けれど、そんなん生きていれば(大げさだな)仕方ないことでもあり。

映画も一期一会、大事にしよう。

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